2015/02/25
こんばんは

『くるあん工房』うえはらです

さて、沖縄生活
3日目
いよいよこの時がやってきました
帰宅の日であります

残された時間を
思う存分楽しむのであります
がっ、雨ですっ
傘がいるくらいの、
雨ですっ
晴れ男
、
力およばず
まぁ、
何を言ってもしょうがないので、
できることを
楽しむのみ

で、
向かった先は・・・
ででんっ!
首里城
雨の首里城ってのは
逆に
朱が濃く見えて
案外いいものですね~


これはこれで正解かもしれません

ちょうど開門時間だったようで、
開門と同時に多くの方々が
一斉に入って行きます


おいらもそれに続いて、
奉神門をくぐると・・・
ででんっ!
正殿であります
大きいですねぇ~


先の大戦で壊された後、
修復される際に
少~し大きく造った、とか

正殿の中は、
ほとんど
撮影禁止
ということで

この1枚だけ

王の椅子です

(ちなみに、ここは撮影OKでした)
豪華ですね~

一度は座ってみたいものです

はてさて、
首里城を堪能した後は・・・
壺屋やむちん通り
壺屋さんが立ち並ぶ
静かな通りです


至る所に
シーサーがいます

中にはこんな昔ながらの井戸も・・・

ポンプ式ですね~

なんだかオシャレですよね

また、
焼き物博物館なんかもあったりします


ただ、今回は
時間が早すぎたようで、
まだOPENしていませんでした


通りを抜けると・・・
でかシーサー
『壺屋うふシーサー』というみたいです

水煙をあげたり、時にはしゃべったりして
やむちんの街を見守っているご様子

ちなみに「うふ」とは、
こちらの方言で、
「大きい」という意味らしいです

こんな大きなシーサー
どうやって焼き上げたんでしょう??
スゴイですね

そして、一行が向かったのは・・・
旧海軍司令部壕
終戦間近の昭和19年、
日本海軍設営隊によって掘られた
壕です

なんとこの壕は、
すべて手作業で
掘られたものだそうで


おまけにここいらの
地盤はとメチャクチャ固いといいますから、
もの凄い労力を要したことが窺えます

では中に入ってみましょう


およそ100段の階段を下ると、
そこはまさに
アリの巣の様相を呈した空間が広がります


通路の両脇には溝が掘ってあり、
排水のこともキッチリ考えられています

いたる箇所に、

暗号とも落書きとも見える
いろいろな傷があります

この壕には、
医療室、発電室、作戦室など
さまざまな部屋があり、
まさにこの場所で
作戦会議、暗号読解、
信号解析、治療と、
さまざまな事が行われていたんだなぁと思うと
なんだか胸が苦しくなりました

上写真の傷だって、
誰かが何らかの意味で描いたワケですもんね

無念だったろうなぁと思います。
こちらは
司令官室
当壕の司令官であった
大田實 氏の部屋です。
壁には、
大君の
御はたのもとに
死してこそ
人と生まれし
甲斐ぞありけりとあります。
部屋の外にある通路には、
司令官が残した電文が
掲載されています

長いですが、
今この日本で生きる皆様にも
当時の沖縄の想いを垣間見ることで
今後の日本を背負う上での
何かの力になればと思い、
ここに記します。『昭和二十年六月六日
二十時十六分発
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう、取り計らってください。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、三ニ軍司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができませんので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始まって依頼、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身を捧げ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや切りこみ隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重症者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公するのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしましました。
沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も六月一杯をささえるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。』
とあります。
大田司令官はこの後
6月13日に拳銃自決を遂げます。
幕僚室には、
手榴弾によって集団自決した際の
爆片の跡がくっきり残されていました。
が、
あまりに生々しいので
ここでは掲載を避けます

今の日本のありようと、
自らのあり方を
改めて
今一度考えさせられる場所でした。
その他、当時の写真や、

戦艦大和のレプリカなんかも
飾ってありました

さて、この頃になると、
すっかり雨もあがり、
次に向かいまするは・・・
あ、
途中、海底トンネルを抜けました

ででんっ!
福州園
中はとにかく中国っぽい感じ





ちなみに、
大勢の観光客がいましたが、
その
9割が
中国の方でした


そしてここでまた国際通りに戻り、
その中にある
市場本通りを練り歩きます


中はさながら
東南アジアの出店商店街のような感じ



ところ狭しとお店が並び、
色んなものを売っています

と、ここで昼食

今回は
あぐー丼
こってりジューシーで、
甘みと旨みが絶妙な一品

お腹を満たした後は、
しばし
ショッピングタイム
国際通りをぷらぷら歩いていると、、、
んっ!?
ポルシェ!?むむむ・・・思わず中に入ると・・・
男子の心をくすぐる
オブジェがズラリ

シルバーアクセサリのお店でした

どうやら店長さんが
大のポルシェ好きで、
ご自身の愛車を飾っているのだとか

ウチもいつか
エンツォ
飾ってみたいな~(笑)
しばしのショッピングを
終えますと・・・
ついにこの時がやってきました


IN THE
那覇空港そう、
お別れのトキであります


夢の国とも
いよいよおさらばのトキが
やって参りました・・・

ときに、この時、
とある男性大物有名芸能人さんが
空港にいらっしゃいました

奥様と二人だけでしたので、
恐らくプライベートだと思います

ので、
写真や会話は避けました


実名もここでは避けますね

でも、
沖縄の最後をかざる上で、
いい思い出になりました

やっぱりツイてる

ちょっと話が変わりますが、

空港内には航空自衛隊の
F-15イーグル(??)
戦闘機って直に見ると
カッコいいですね~

やっぱり何にしても、
無駄のないフォルムって
美しいんですね

とか何とか思っているうちに
無情にも、おいらは空へ・・・
さらば沖縄
数々の想いと伝説を残し、
おいらは飛び立ったのでありました

・・・いいなぁ、沖縄

や、ホントに

いろんな意味で

いつか住みたいなぁ~
あっ!そうだっ!いつか支店を作ろう
『くるあん工房 那覇支店』いいですねぇ~

まぁ、、、
その場合、
おいらは絶対
社長の座を誰かに譲り、
永年那覇支店長になりますけど
ねっ

とか何とか、
ふざけたことを考えているうちに、

着いちゃいました、
伊丹空港 

外に出ると、
とてもじゃないけど
半袖では過ごせないこの気温に
無理やり
現実を突きつけられます



あぁ・・・
帰ってきてしまったんだなぁ・・・


お金と時間を作って、
また行くぞぉ
沖縄
誰といこう??
家族でしょう!
という旅でした

長文の愛読、
ありがとうございました

明日からはまた、
他愛ない雑ネタに戻りますが、
今後ともどうぞごひいきに

昨日より更に幸せな一日でした~